■お題
この記事では、積極的安楽死 が増えるであろう未来について、考えてみたいと思います。
人生を終わらせる日を決めたいですか?
安楽死は賛成ですか?
何世紀にもわたって議論されてきたテーマです。
安楽死は、苦痛のない穏やかな方法で人生を終える行為であり、多くの場合、苦しみを和らげ、苦痛が長引かないようにするための方法と考えられています。
安楽死は、ある特定のケースでは、個人がもはや自分らしく生きたり機能したりすることができなくなったときに、尊厳を持って人生を終えることを可能にします。
積極的安楽死という言葉は自ら望んで安楽死したい、という意味です。
安楽死の語源
安楽死」という言葉は、ギリシャ語で "よく" を意味する eu と "死" を意味する thanatos という二つの言葉に由来しています。
この定義から、安楽死とは、現状で生き続けることに耐えられないと判断し、自分の人生を終わらせることを選択する、慈悲深い殺人行為であることがわかります。
安楽死の支持者は、安楽死は人々に尊厳と安らぎを持って死ぬ権利を与えるものだと主張する。
不治の病や末期的な病気で苦しんでいる人がいたら、それ以上の痛みや苦しみに耐えることなく、どのように死ぬかを決めることが許されるべきだと考えているのです。
反対派は、安楽死が医師によって医療過誤として利用される可能性があると主張し、またこの行為が乱用される可能性を懸念しています。
まだまだ安楽死には課題がある
安楽死の合法性は国によって大きく異なるが、いくつかの共通点がある。例えば、ほとんどの国では、積極的な安楽死を行う前に、患者から明確な同意を得ることを求めている。
また、多くの国では、安楽死を実施できる者(通常は医師免許を持つ医療従事者のみ)、
実施できる状況(通常は他の治療が失敗した場合、または症状を十分に緩和できない場合)について厳しい規制が設けられています。
しかし、安楽死は、その核心において、難しい道徳的な問題を提起しています。人生を終えることは幸せなのか、もう十分だと判断する権利は皆にあるのか。医師や医療従事者は、誰かが生より死を選ぶことを手助けすることは、道徳的に許されるのか?
安楽死 を認めている国が増えている
近年、耐え難い苦痛から逃れるために自らの生命を絶つことを選択する人々が数多く存在し、注目を浴びています。
安楽死を認める国もどんどん増えています。
2020年10月、ニュージーランドで安楽死を合法化するかどうかをめぐる国民投票が行われた。集計の結果は、賛成が反対を大きく上回るというもの。今年にも合法化される見通しとなっている
安楽死が認められている国の共通点 ニュージーランドはなぜ合法化が進んだのか
日本でも安楽死を求めて海外のグループにお願いした、というお話もありました。
このため、個人が自分の死に方をより自由に選択できるようにすることを支持する声が高まっています。
この傾向は将来的にも続き、より多くの国が何らかの形で安楽死を合法化することで、アクセスや利用可能性が大幅に増加すると思われます。
自発的安楽死幇助(VAD)
将来、安楽死が合法化される可能性が最も高いのは、自発的安楽死幇助(VAD)です。
VADは、患者が適切な時間と場所で自らの命を絶つことができるように、医師が薬物や援助を提供するものです。
この方法は、ベルギー、ルクセンブルグ、カナダなどの国々ですでに採用されており、
絶対に必要な場合にのみ使用されるよう、強い規制が設けられています。
VADは、難治性疾患による終末期医療へのアクセスを高めるだけでなく、
喪失や孤立からくる孤独感や抑うつによって生きることを望まない高齢者にも利用される可能性があります。
これは、社会や医療関係者から恐れや批判を受けることなく、
どのように死を迎えるかを自分で決めることができるようになるのです。
このような利点があるにもかかわらず、自殺幇助を合法化することには、倫理的に強い反対論がある。
特に、自殺を安全に行うための薬を提供するだけでなく、
医師が積極的に自殺を手助けする場合はそうであります。
罪に問われた医者もいるということです。、
このような理由から、政府は、直接的に死を助けるのではなく、
末期的な病気に伴う苦痛を和らげることに焦点を当てた緩和ケアの導入を選択することがあります。
自殺は罪なことなのか? 積極的安楽死
さて、人生というのはいつ死ぬかがわからないから不安でたまらないわけです。
では死ぬ日を決めることというのは幸せにつながるのでしょうか。
この答えはわかりませんが、
少なくとも将来安楽死というのは認められて増えていくのではないかと私は考えています。
世の中は未だに老化に逆らって、
死ぬことを何とか伸ばそうという方向へ進んでいます。
やがて年齢による限界を克服し、 90歳以上でも健康でいきいきと暮らせるようになるからだ。年の取り方が劇的に変わる大変革が、目の前に迫っている。 SFのように聞こえるかもしれないが、これはたしかに科学だ。」
『SuperAgers スーパーエイジャー 老化は治療できる』ニール・バルジライ, トニ・ロビーノ著
もちろん健康でいたいというのは100%同意します。
また、そのための努力も怠らない方が良いというのは理解できます。
ただ100年生きるということに何の意味があるのでしょうか。
私のような何もない人間が、
お金が尽きることなくずっと暮らしていけるのか非常に疑問です。
100年元気でも仕事がなければどうやって生活するのか、年金だけでは難しいです。
むしろ、六十歳から70歳ぐらいで一区切りする方が
後世のためではないのかとすら思ってしまいます。
生きるということは苦しい
生きるというのは本当に苦しいことです。
私の個人的な意見ではもし自分で死を選ぶことができるのであれば、
それは良いことなのではないかと思っています。
もちろん近づいた時に急に辞めると言うかもしれませんが、
何時でも、人生というゲームのスイッチをいつでも自由にできるのであれば、
辛くてもどうせダメなら安楽死すればいい、という気分にもなるかもしれません。
独身男性であれ私は将来は天涯孤独ですから、決断するのは容易いと思います。
少なくとも100年や200年生きようと思うことの方が理解できません。
もちろん二度と取り返しのつかないことではあります.
しかし、よほど難病で苦しんでいる等がない場合は、
ある程度年齢制限などは設けなければいけないかもしれません。
六十歳以上は安楽死できる、などでしょうか。
なんか殺伐としてる気もしますが、逆に救われる人も出てくるような気がします。
精一杯生きて元気よく死ぬことができる
私は基本的に安楽死は賛成です。
難しいことも十分わかっていますし、残されたものは悲しいですよね。
ただ、ずっと生きて働けなくなって、何もできないのにただ、
苦しんで惨めに散っていくことは、どうなのでしょうか・・・・
私はいつでも死ねるから元気に最後までやろう、
という気持ちも芽生えるのでは、と思うのです。
生きている間にベーシックインカムのような社会制度ができたり、
もっと暮らしやすい世の中になっても、生老病死は避けられません。
最新技術で老化を止められるのであれば、最新技術で死ぬことも考えてほしい。
貴方はどうお考えですか?